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本丸
高遠城は巧みに天然の地形を利用し、本丸を段丘の突端に置き、東から北にかけて二ノ丸、さらにその外側に三ノ丸を巡らした城郭三段の構えを持っていました。
天正10年(1582)城主仁科五郎盛信が織田軍に敗れ壮烈な戦死を遂げた後、高遠城の城主は保科氏、鳥居氏と替わり、元禄4年(1691)からは内藤氏が廃藩まで8代、180年間にわたって城主でした。
江戸時代、本丸には城主の権威の象徴たる天守閣はなく、平屋造の御殿や櫓、土蔵などがありました。
本丸御殿は政庁であるとともに藩主住居も兼ねていましたが、廃城時、城内の建物は取り壊され、今では明治8年(1875)頃に移植された桜(タカトオコヒガンザクラ)の古木が毎年美しい花を咲かせ、幾多の武士が眠るこの地に散華となって降り注いでいます。
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