高遠城の歴史
高遠城は南側の三峰川(みぶかわ)と北側の藤沢川に挟まれた河岸段丘の突端に造られた‘平山城’です。本丸を中心として取り囲むように二ノ丸、南曲輪、三の丸などの曲輪(くるわ:城の区画)を配しており、還郭式と呼ばれる縄張りです。
(築城時梯郭式であったものが、その後還郭式へと変遷しています。)
高遠は古くから諏訪氏の勢力圏にあり、南北朝の頃より諏訪氏の支族である高遠氏が一円を治めていましたが、諏訪から伊那谷へ抜ける交通の要衝であり、駿河や遠江に進出するための重要な拠点であったことから、戦国時代の天文年間(1522~1555)に武田信玄がこの地を押さえました。
その後、信玄は高遠城の縄張りを家臣に命じ、天文16年(1547)に「鍬立て(地鎮祭)」を行っています。この時指揮を執ったのが山本勘助であると伝えられていますが、後にも大規模な改修がされているため、信玄の頃の城の姿は分かっていません。
しかし、曲輪の周囲にめぐらされた深い空堀や土塁からは、地形を巧みに利用した戦闘的な城の姿をうかがい知ることができます。
武田氏による高遠支配は35年間続きましたが、高遠城は南信州の拠点として重要視されたため、城主には諏訪(武田)勝頼や仁科五郎盛信(信盛)など、信玄の近親者が就いています。
中でも天正10年(1582)、伊那谷に攻め入った織田の大軍と壮絶な戦いを繰り広げた仁科五郎盛信の姿は、後々まで語り継がれています。(高遠城の戦い)
江戸時代になると高遠城は高遠藩(石高33,000石)の藩庁として、保科氏、鳥居氏、内藤氏と約270年にわたり上伊那の政治の中心となりました。
戦国期、武田氏時代の高遠城は、大手が月蔵山の方向、東側にありましたが、江戸時代前期の鳥居氏時代までには西側に変更されたといわれています。
主要な街道沿いに発達した西高遠の門前町を城下町として取り込むように、近世城下町の建設と城郭の大改修が行われたのです。
現在の高遠城址はこの時に整備された曲輪配置をそのまま残しています。
江戸時代初期に高遠藩主であった保科正之は、2代将軍徳川秀忠の御落胤(父親に認知されない私生児)として知られています。正之は高遠藩から山形の最上藩を経て会津藩へ移封(大名を他の領地へ移すこと)となり、藩祖として会津松平家の基礎を築きました。
また、元禄4年(1691)に鳥居家に代わって藩主に付いた内藤氏(江戸下屋敷は現在の新宿御苑にあったことが知られています。)は、明治時代にいたるまで8代にわたり高遠藩主を務め、高遠藩で最も長い治世を誇りました。
明治維新後、高遠藩は廃城となり、本丸御殿や門、橋など場内の建物は全て取り壊され、石材や立木、土地にいたるまであらゆるものが民間に払い下げられました。
そして、明治8年(1875)に城跡の公園化が決定すると、地域の人々が集う「高遠公園」として新たな道を歩み始めました。
昭和48年(1978)には国の史跡に指定され、平成18年(2006)には日本100名城の1つにも選ばれており、現在は都市公園「高遠城址公園」として多くの人々に親しまれています。
高遠城主の歴史
高遠氏の時代(約200年間)
南北朝時代の初め(西暦1300年頃)諏訪氏の一族である信員が領主のなかった高遠の城主となり、高遠氏の祖となりました。戦国時代に移って天文14年(1545)、7代目の頼継は信濃(長野県)侵攻を本格化した武田信玄(晴信)と争った後、降伏し服従、その後没落しました。
武田氏の時代(37年間)
武田信玄は高遠城を甲斐(山梨県)への交通の要衝として重視し、天文16年(1547)に大規模な城の改修整備を行いました。重臣の秋山信友や、信玄の四男勝頼、弟の信廉、のちに織田軍との戦いで唯一武田武士の力を見せ付けた五男仁科五郎盛信(信盛)など、武田氏の近親者が城主に置かれた重要な拠点でした。天正10年(1582)3月2日、高遠城は織田の3万とも5万ともいわれる大軍勢により落城、甲斐へ一気に攻め込まれ、同年3月11日には当主となっていた勝頼が討たれ滅亡しました。3か月後の6月2日、織田信長も本能寺の変で討たれ滅亡、豊臣秀吉の権力が増大してゆきます。
保科氏の時代(前期)(8年間)
武田滅亡後、その配下であった保科正直が徳川家康に服従して高遠城主となりました。天正13年(1585)時代の混乱に乗じ、信濃松本城主・小笠原貞慶5千の軍勢が正直の留守を狙い高遠に侵攻してきた際には、正直の父で老将の正俊が100に満たない手勢で急峻な地形を利用し撃退しており(鉾持参道の戦い)、このことからも難攻不落の城であったことがうかがえます。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐によって北條氏が滅び、同年保科氏は下総多胡(千葉県)へ移され、高遠城には信濃飯田領主・毛利秀頼の城代が置かれました。毛利秀頼が朝鮮へ出兵した文禄の駅で死去すると、文禄2年(1593)その後の飯田領主・京極高知の城代が高遠城に置かれました。
保科氏の時代(後期)(36年間)
豊臣秀吉の死後、関ヶ原の合戦で石田三成と争い勝者となった徳川家康の権力が強くなると、配下である下総多胡藩の保科正光(正直の子)は2万5千石で故郷高遠に帰り、その後、2代将軍秀忠の隠し子で養子となっていた正之が跡を継ぎました。後、3代将軍家光に引き立てられた正之は、寛永13年(1636)に山形藩(山形県)20万石に、同20年(1643)に23万石に加増されて会津藩(福島県)の藩主となり、4代将軍を補佐し幕政を主導する立場となってゆきました。幕府から松平家を名乗ることを勧められていましたが、青年時代を過ごした高遠と正光への想いから生涯保科姓を通し、子の正容の時松平姓に改め、幕末まで会津藩主として存続しました。
正之は出世の折に家臣の数が足りなくなったので、高遠から優秀な農民を士分に取り立て連れて行ったと言われ、それより250年後の幕末、戊辰戦争での白虎隊の悲劇で自刃した19人のうち11人は伊那で見られる名字を受け継いでいました。また、正之が蕎麦の栽培を普及させたことから食文化が伝達し、現在の会津では「高遠そば」の名が見られます。
鳥居家の時代(53年間)
鳥居氏は山形藩20万石の藩主で、当主忠恒が嫡子を定めないまま死去してしまい、末期養子の禁令により改易となるところでしたが、父祖の功績によって弟の忠春に3万石の高遠領が与えられました。その子、忠則が忠春の跡を継ぎましたが、元禄2年(1689)に家臣の過失が問題となり幕府から閉門の刑を命じられ、その最中に急死したことから高遠領は没収、子の忠秀は1万石に削減され能登下村藩(石川県)に移されました。
幕府領の時代(2年間)
鳥居氏の後、高遠の領地は徳川幕府が治める領地とされ、城は信濃松本藩主・水野忠直の預かりとなりました。元禄3年(1691)幕府は信濃松代藩主・真田幸道に命じて高遠領の総検地をおこない、その結果3万石の高遠領は3万9千石と改められ、高遠領の一部であった洗馬領の6千石は幕府領へ編入されました。
内藤氏の時代(177年間)
元禄4年(1691)内藤清枚は富田林藩(大阪府)から、高遠3万3千石の領主として移封され、その後、江戸時代の終わりまで高遠藩を治めました。2代頼卿の時には幕府からの命で、絵島生島事件(1714)で流罪となった大奥御年寄・絵島の身柄を預かっています。3代頼由の頃には、世界に先駆けて広角度の回転砲台・周発台を発明した砲術家の阪本天山を輩出し、後に教育が盛んとなり、8代頼直の時に藩の学校・進徳館が創設されました。政権が明治新政府へ移行すると、頼直は明治2年(1869)の版籍奉還で高遠知藩事に、明治4年(1871)の廃藩置県で高遠県知事に任じられました。しかし、その年の内に筑摩県との合併で高遠県は廃止、頼直も免官され、家臣領民の皆に惜しまれながら東京へ移り住みました。現在の東京都新宿区内の新宿御苑一帯は、江戸時代内藤家の下屋敷であり、その一部が新しい宿場「内藤新宿」となりその地名が残っています。その縁で現在、伊那市と新宿区では友好提携が結ばれ交流が育まれています。